昭和52年05月10日月次祭
『真にありがたしと思う心すぐにみかげの始めなり。』
「真に有難しと思う心すぐにみかげの始め」真に有難い、有難いにも色々ある事が分かります。真に有難いというおかげを頂かして貰う信心は一年一年有り難うなってくる、信心が一年一年有難うなってくる信心をさして貰わなければ、それには「真に有難しの追求」がなされなければなりません。本部の元の学院の学監をなさっておられました、永井先生という偉い先生がおられます。この方は合楽の大変なフアンで、わざわざご本部に参りましたら私共が古川の家に居る事が分かって。
わざわざご夫婦で尋ねて見えて、そして色々と私の話を聞いて下さるいう程しに、熱心に合楽の信心を見ておって下さり祈っておって下さる、本部で唯一人の合楽フアンの先生という感じであります。その先生が時に私にお話になった事の中に私いつも学院生の場合でも考える事ですけど、合楽から参ります学院生は非常に感受性が強い感動が強い、これは合楽の修行生のまあ、いうならば特異性である変わってと言う訳であります。それは成程、人様々な性格がありますから。
なにか人が感動して涙を流したりしておりますと却ってそれが可笑しいぐらいの人もあります。その人が冷たい人かというとそう訳でもないのですけど、人それぞれの心の状態が違うからですけれども。「真に有難い」というのはそういう感受性が強いから弱いからと言う事ではない。これは誰でもが信心になれば真に有難くなって行くという「有難い」でなかればならない、でないと神様もエコヒイキと言う事になる。
「世界中の氏子におかげはやってある」と仰せられる世界中の人間氏子は、誰しもがおかげの受けられる状態を誰しもが持っておるんだと、それはどういう心で受けるかというとそれは「真に有難いという心」で受けるのです。所がその感受性が強い、感動が強いという程しの人は有難いんですけども、その代わりに冷め易いという欠点がある。涙が出るほど有難かったと思うと、もう三十分もしたらすうとしてしもうてから、有難くなろうと思うても有難くなれないという人がある。
ですからそういう有難いというのが「消えないような有難さ」がある筈なんです、それはおかげが頂けれる本当の「真に有難い」というのはそう言う心である。そう言う心を目指す事が私は根本的な処から入っていかないと、唯ありがたい話を聞いて涙を流したという、それはお芝居や落語やら見たり聞いたりしても涙を流すじゃないですか、それが有難い事に繋がるおかげに繋がると言う事はないんです。
今日の朝の御理解の研修を皆いたしました。おかげを頂きまして始めてビリグイ教会から末永先生の第一便が、私宛若先生宛それから信徒会の皆さん宛にまいっとります。それが一通一通感動感激いっぱいの文句でつずられておりますが、今日の朝の御理解が『神は姿もなければ声もなし疑えば限りがない恐るべし』という御神訓が御座います、なるほど神様は姿もなければ声もない、それでも疑うごうてはならない。だからそれの反対の事になりますというならば神様のいうならば、声をそこに聞き姿を見る。
そこに神様のお働きを感じ取らせて貰う、その反対の事は恐るべしではなくて有難しと言う事になるのじゃないでしょうか。神様を信ずる神の姿をそこに見る、神の声をここに聞くと言う事である。そういう例えば御神訓に基ずいて末永先生がその反対の心で南米布教に出らして頂いた。とても神様を信じ親先生が日頃言うておられる事を信じておらなければ出来る事ではない。よいか悪いか先ずあんばいに自分一人で行ってみろ、あちらで立ち行くごたるなら、家内も呼ぶう子供も呼ぼうというのが普通である。
しかも向こうには何にもないのです、引き当てというのが無いのです、いうなら南米の地に新地に布教にでるのと同じ事。何十年たったいわばビリグイ教会というのがありますけれども、いわば生活をも他の仕事をなさってしておられるという八十何歳のお婆さん息子さん、孫さん達がおられるけれども他の仕事をなさっておられると言う様な状態の中に行くのです。成程ご信者さんがおられないなと言う事を手紙の中に先日月次祭を初めてとうぶ・?の月次祭を仕えております。
それに四名の人がお参りしております。大体例えば50年も経った教会がそこにあって、そのあと後継者で行くとするならば、今度は合楽から若い先生が見えるげなというてある意味で好奇心も手伝うて皆が集ってくるというのが普通です。けれどもそれから数日後に元の教会長であられた先生のお墓参りをさして頂いた、そして奥城で奉仕着をつけて奥城に出らして頂いて、一歩外へ出ると外人ばっかりブラジル人ばっかりなんです、ブラジル人の墓地の中に先生の奥城がある。
そこへお礼参拝さして頂いて、一生懸命天津祝詞と祖先賛詞を奏上さして頂きましたら、周囲に黒山の様にその集っとった。丁度日曜であったから、日曜日は皆んな墓参りをするそうです、そのブラジル人が皆んな集まって来て、自分とこのお墓も拝んでくれという人が何人もあった、言葉は分からないけれども、その頼みに応じて御祈念をさして頂いてそして合楽理念を一生懸命語らして頂いた。
「魂の救われる助かると言う事は」と言う事を、日本語が通ずる筈がないのだけれども、涙を流して聞いたというお手紙に書いてあるんです。恐らく自分が涙をながしてお話したから、もらい泣きしたんでしょうねキット、けれどもね必ず言葉だけではない、心と心が通ずるんだと言う事を実感しましたと言う事を書いています。そういういうならば新地での布教のことですから、とても神様を信じておらなければ出来る事ではない。親先生が言いござった事を信じなければ出来る事ではないと言う事です。
そこには次々と例えばこちらを出発しそしてサンパウロに到着してサンパウロからビリグイに参ります間の、もうそれこそ生き生きとした神様のお働きを間の当たりに頂いて、白馬にまたがって蹴散らす勢いと仰ったが、もう本当に通れ無いところをそれこそ蹴散らすような勢いで通っていっておる事が手紙に詳しく書いて御座います、ですからその信じる心がおかげにならない筈がないと思うです。
そう言う様な後でだから、今日の御理解は3通の手紙を読んで貰って、今日のご神訓を聞いて頂いています。だから一つ手紙をお読み下さ、いテープに入ってますからお聞き頂きたいと思います。それで今日研修の時に皆んな今日の朝の研修をさして頂いたら、きょうは数えてみたら25人の修行生の方達がここで研修を受けております。一人一人を聞かせて頂いたんですけど、今日の御理解をいかに頂いたかと言う事を、ほとんどが纏まとめていない、唯感動で頂いた感動で受け止めたという人達ばっかりであった。
中に中村徹美君が発表しおりましたのが折角唯「今日のご理解は有難かった」というだけでなんにも残ってないのでは、その有り難いというものは消えてしまう。それを例えば末永先生が出しております手紙の中から一言聞いても感動するような言葉をつずり合わせて書いておりました。
ブラジルの地にいうなら暗夜に、闇の世界から光の世界に入る、合楽元年と言った様な自分の実感を書いておる訳です。これからいうならばブラジルの人達がこの光に浴することが出来るんだあという確信と自分の信心をそのように語っております。お話を頂いて感動する何かちょっとしたことで感動するしきりに感動するけれどもそれがスーと消えてしまう、それはおかげに繋がる本当のありがたい物ではないのだ。
始めての月次祭を奉仕させて頂く一時間まえに神前祈念を一時間させて頂いとった、一時間御祈念してる間にトロッと眠ったのであろう、ご神事とも御神願とも分からないお言葉で頂いた「喜びの蓄積が徳になる」というお言葉であった。「喜びの蓄積が」だから喜びが続かなければいけない、そこで喜びの蓄積が徳になるように、喜びとは反対の心は折角の喜びを消してしまう事になるのです。
喜びは続かなければならない。そこで本当の消えない喜び、真にありがたいという心は何処から生じ何処から頂け生まれて来るかと言う事をしなければなりません。昨夜帰って見えたそうですが箱崎教会の佐田先生が今修行に見えておられます、丁度は箱崎の御大祭でしたから2.3日帰っとられました、今朝からお届けに見えてからこの度は大変おかげを頂いてあちらの連合会長先生のお説教であった。
佐田先生がこちらに修行に来ている事をみな先生方は知っとられる、それで合楽の事を聞かれたから合楽理念の特集号を見せて差し上げた、そしたらその先生が大変ビックリされたと言う事で御座いました。お互い金光教の信心によって助かりたいと願うて居る者はどれ位おるか分からん、そのためには様々な修行してから尚且つおかげを頂けておらん人が又どれ位あるか分からん。
所が大胆といえば大胆もう是は絶対の道だと合楽理念に説いてある、しかもそれを読み流して見ると成程これならお徳が受けられるだろう。しかも成そうと思えば子供でも成せる事であり、やろうと思えば誰でも実行が出来る事しかも楽しゅう嬉しゅう又は愉快にこれを行じていけれるとある。もう驚いたというよりもビックリしてしもうた、という私はお届けを聞かせて頂いてから改めておかげの泉特集号をみせて頂きました。
私は又新たな感動、それこそビックリしながらあの合楽理念特集号をもう本当にあっという間に読み返さして頂いて、もうどの章を見ましてもビックリする事ばっかりだと言う事であります。本当にお道の信心によって徳が受けたい、我も助かり人も助かり、しかも私が助かる事が神様も助かって下さる合楽の世界へのいざないである。金光教の信心の理想である理想郷なのである。
そういうそれは遠い処のものでなく、今日からでも今からでもそれを行じさせて頂こうとすれば出来る程しのものである事を今日は又改めて感じさせて頂いた。だからそういう一つの絶対の理念に基ずいて私どもが真に有難くならせて頂く稽古をしなければならんと言う事であります。皆さんあの御理解をもう一度読んでビックリする程しの事が書いてあるんです。始めの間は半信半疑けれども合楽ではここに、いうならばおかげの樹立、おかげを打ち立てながら実証しながら。
私が説いている事であるから私はそして、否本気で求めておる人にはそれがその様に響いていったんだろうとこう思います。今日四時半に下がります、今日は他に用件がありまして座らしていただいてたら月の10日は山口のご信者さん方がお参りしてくる日なんです、丁度その時間に5、6名でお参りして参られました。次々にお届けをさして頂きます中に一人の人があるお願いをなさりましたら基山の基という字を頂きました、基山の基はこの字でしょ中が下が土になっているでしょう。
土という字が小さく書いてある、「これを大きく釣り合うようにしたらこれがおかげの一切の基だ」という御理解を頂きました。おかげの基なんだ基礎の基なんだ、それはいうならばどろの信心であり、大地の心を心とした信心がお道の信心の基礎になる、土台になるのだ、この事をあらゆる角度から合楽理念は説いています。
昨日又井戸の水が濁って真っ白になっとります、こちらにもある、こちらにもある両方とも濁っている濯(ゆす)ぎ水をもってきたりなんかして、椛目のほうでお風呂沸かしたから入りに来てくれ、みんな入りにいってから「私とも行かんか」「私しゃわざわざ椛目まで風呂入りにいかん」「濁っとりますよ」「これはありがたかじゃないか」例えば水もお恵みならばどろもお恵みなんだ。
言うならば「くすり湯に入るようなもんじゃないか」私の婆達は子供の時なんか、転びますよね膝をうち割りますと「はあー金光大神様とそこのお土地を膝のうち割った血の流れている処へ泥をこすってつけてくれました、所謂そのままが天地の親神様のお体お姿だという訳なんです。そういう尊いいうなら泥と水とが混じったお水ですから、私は色々足に腫れ物が出来る、化膿して普通なら水が浸けられんけれども。
今日のお湯はお恵みの泥とお恵みの水のお風呂だから返っておかげを頂くというもう本当に有難い頂き方でしょうか受け方というのでしょうかおかげになる。とにかく泥の信心が先ずはお道の信心の基礎であり土台なのである。お互いがちょっとしたら感動が湧いた、すぐ消えてなくなる、それはあなたが感受性が強い性格的に生まれつきそうなんだということになるんです。
だから真に有り難いというのは感受性が強いとか弱いとかではない、誰もが何時も心の中に頂きとめて行く事が出来れる有難さというものが頂けれるのが信心である。でなかったら天地の親神様が不動である。神様から頂く本当の有難いというものは感受性が強いとか弱いではない男だから女だからではない。唯そういう真に有難いと頂けれる思い入れる信心の基礎土台をしっかりしとかなければならない、それにはどろの信心を愈々身につけていくことだとということになります。
先日久留米の支部の御大祭でした、今日ある教会の信徒総代さんが参って見えてから久留米の話を聞かれて「大変盛大だったそうですね、」と。とても盛大でした、とにかく百の弁当が足らん事あった、それで久留米市長夫妻が参拝、原口県会議員が秘書同伴で参拝、最後の最後まで祝福して下さりながら、兎に角市長さんなんかは私共に申されました、合楽教会に対してそれこそ「久留米市民20万に代わってお礼をもうしあげます」と言う様な事を仰っとられた。
実は私共2.3日前は大祭でした、もう70年位になる教会「どれ位参っとるじゃろうかと数えてみたら勝手もこっちも含めて70名だった、以前は随分お参りがあったけれどもどういう訳にお参りがないでしょうか。」そしたら神様から「生気」と頂いた「生まれる気」ですね、結局信心にはこの生気というものが要るのです。お話頂いとってもそれこそどうか空々しい時には心に生気が無い時です、頂こうという気がない時です、そのいうならば生き生きとしたみずみずしいまでの。
というものが頂ける事の為に私共は修行が要る。唯修行といってもいうなら理念に基ずいた修行がある、それをいつも私は「どろ」に基調を置くと良いというので御座います。 黙って治めると言う事もどろの信心です、寛大の寛の字ウ冠を書いて草冠そして見るウかんむりというのは宇宙の宇であり、草冠というのは自然であり、それを神の働きと見るということなのです、そう云う見方これも「どろの信心」でしょう。
先ほどここで熊谷さんがお届をなさいました、次々と此の頃から熊谷さんのお導きでひとが助かる、先日からもある病人さんのお届けをされとったがおかげを頂いて医者がたまがるようにおかげをいただいたが全快というが、退院のおかげを頂いてこられた、しかしどうか未だおかしい、それで病院に行かれた、そしたら病院の先生が「自然にほっとけば治るでしょう」その時にその人は大変な感動を受けてるんです。
私もその話を聞いて感動しました先ほど。ほう「自然にほっときゃ治ると言う事は、自然と言う事は合楽では神様の働きと言われるが、神様の働きを受けなければよくならないのだな」と言う事が分かりましたというて夕方見えた、だから今晩お参りしたいがお参りができんからというてお初穂をことずけて、そう言う風にいわれた。もう一人の人は百万円ある人に引っかかった。
腹が立って堪らん、00教会のご信者さんである。それで合楽の話をして合楽に導かれたおかげを頂いて「相手を恨まず相手の事をしっかり祈りなさい」というて話を聞けば聞くほどホンにそれもそうだと思うて「相手のことを一生懸命願いよりましたらその塀を境に仕事が今まで。
かって無い程しの仕事が次々とあるのでそれこそ百万円に引っかかる位でない程しのおかげを頂いていますからどうぞ今夜お参りになるならお礼を申しといて下さい」という人が見えた。そういう例えば祈りとか他人の事を思うという心もね、泥の心から生まれてくるもんじゃないといけないです。大地の心を心とする信心が基調になってそこから育っていく信心ならば一年一年間違いなしに有難くなっていく。
いうならば唯時々感動する話を聞いても感動した、帰ったらその感動がなくなってとったと言った様なものではない。お芝居を見て感動する。話を聞いて心が有難かったというのではなくて「真に有難い心すぐにみかげの始め」と仰せられるそのおかげに繋がる程しの有難いというものを求めての信心でなからなければならない。その基調をなすものそれは基調の「基」である下に「土」いう字がしっかり出来た処から本当の「有難い」というものが育って来ると言う事で御座います。
どうぞ。